夏目漱石を読む

読了は知名度と比例するか

名前はよく知られているけれども実はあまり作品が読まれていない作家というのは世の中にたくさんいますが、おそらく、夏目漱石もその一人なのではないかと思います。

夏目漱石の代表作といえば、という質問に対しては、『吾輩は猫である』や『こころ』といった作品のタイトルが真っ先にあげられるのではないかと思いますが、それを最後まで読んでいる人がどれくらいいるか、というと、途端に数が減ってしまうというか、読んでいる人は意外なほど少ない、というのが個人的な印象としてはあります。

小説は「あらすじ」ではない

夏目漱石に限った話ではありませんが、「あらすじ」をなぞることは、「小説を読む」ということとはまったく別の体験です。

夏目漱石の小説の「あらすじ」だけを追うこと、「冒頭部分」だけを知ること、「有名な一節」だけが抜き取られた名言集を読むことにはあまり意味がありません。

たとえば、『吾輩は猫である』については、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」というあまりにも有名な冒頭部分は広く知れ渡っており、その使い勝手の良さから、様々な改変もなされる程度には流通していますが、実情としては、このほんの15文字ほどの文章が流通しているだけで、『吾輩は猫である』という小説がどのような小説であるか、ということは驚くほど知られていないのではないかと思います。

ちなみに、『吾輩は猫である』という小説は、一つの結末に向かって話が進行していくタイプの小説ではありませんから、いわば「あらすじ」というものがそもそも存在しない「どこから読み始めてもよく、どこで読み終えてもいい」という贅沢を味わうことができる「筋」のない小説ですから、読了後は、「小説」に対する考え方を根本的に練り直すことにもなります。

「冒頭部分」や「有名な一節」だけが知られている夏目漱石の作品は、それ以外の部分に散文精神の髄が詰め込まれた非常に面白いテキストが多いので、冒頭部分の先まで読んでみることをオススメします。

漱石の小説は表面的な完成をみない

『こころ』という作品も、終結部の先生の手紙、「明治の精神」といった主題だけは教科書などで読まれることが多いように思いますが、その先生の膨大な量の手紙によって、それまで語られてきた「筋」のようなものに、大胆な切断面が与えられて、構造的な破綻をきたしたまま小説が終わってしまうことなどはあまり知られてはいません。

小説として破綻していても小説というものは成立してしまうし、そもそも一つのあらすじに貫かれているのではなくて、様々な方向に触手を伸ばしたまま放置し、破綻が生じているような、一見すると不完全な状態こそが、小説的な完成度の高さなのだ、ということを、自分は、夏目漱石の様々な作品から学ぶことになりました。

戯曲的な構成で書かれた『虞美人草』や、いわゆる「普通の小説」を書こうとした未完の大作である『明暗』は別としても、夏目漱石の小説というのは、逸脱や切断や宙吊りといった言葉が連想されるような、作品としてのまとまりに欠けた小説のほうが多いくらいなのです。

『明暗』でさえも、夏目漱石の絶命というやむをえない「中断」によって、「小説としての完成」をみることなく、現在も、「おはなし」の佳境で宙吊りになったまま、放置された状態でいます。

『明暗』という作品が、「夏目漱石の絶命」という運命を辿らずに、最後まで書きおえられ、「則天去私」などの晩年の主題がわかりやすく語り尽くされた小説であったとしたら、もしかしたら、現在の「中断されたまま」の『明暗』に比べてあまり魅力がない小説になっていたかもしれません。

すべてが代表作

夏目漱石の小説家としての活動はわずか10年ほどですが、その10年の間に、様々なタイプの小説を書いています。これは並大抵のエネルギーではとてもできないことで、おそらく、夏目漱石が巻き込まれた日本の近代化の渦中で、夏目漱石が時代に置かれていた状況によって「どうしても書かざるをえなかった」という面も強く影響していると考えるのが良いでしょう。

夏目漱石を読む、ということは、日本近代の最大の知性に触れ、現在の自分たちの時代について考え直すということでもあります。

さて、夏目漱石を最初に読むならどの作品がオススメか、という質問が非常に答えにくい性格を持っているのは、夏目漱石が10年の間に書いた小説が、ひとくくりにして総括できるようなものではなく、一作一作ごとに「違う夏目漱石の顔」が作品を通して垣間見えてしまう、ということに原因があるのではないかと思います。

たとえば、『草枕』と『こころ』では、その文体からして全く別物ですし、『吾輩は猫である』などになると、他のどの夏目漱石の作品とも似ていません。『吾輩は猫である』の作者と、『行人』の作者が同一人物であるということには、正直、驚きを感じるほどです。

漱石のイメージを消す

しかし、『草枕』で印象的な「雨」や「体を横たえる」といったモチーフなどは、相貌がまるで違うそれぞれの漱石作品の中に、不意打ちのように突如あらわれて、「夏目漱石の作品は、それぞれが独立しているが、同時に、関連しあってもいる」ということをひっそりと伝えるようにして、同一モチーフが執拗に繰り返されてもいます。

夏目漱石の小説を読む楽しみというのは、夏目漱石という作者がふと消えてしまうような瞬間に驚愕することにこそあるのかもしれません。

そこで消滅するのは、『草枕』と『こころ』がまるで違う作者の作品のように書かれている、というような、「違い」が見えるときにわかりやすく消滅する「夏目漱石という作家のイメージ」かもしれません。

あるいは、「雨」や「横たわる姿勢」などのモチーフを通して、「別の作品」の空間が侵入して衝突してくるような場面、言葉が反応しあい饗応するときの、「夏目漱石」が身を引き、「文章の細部」だけが際立ち、読む人間にざわめきとゆさぶりを起こすような刺激的な瞬間に一時的に消滅する「夏目漱石」の、その消え去り方を楽しむ、ということでもあるでしょう。

夏目漱石とはこのような作家である、という先入観や凝り固まったイメージを持たなければ持たないほどに、夏目漱石の小説というものは、「小説を読む」という楽しさの扉を開くことになるでしょう。

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